子どもの頃、
きょうだいの話を聞くたびに、私は勝手に自分を測っていました。
成績の話。
性格の話。
将来の話。
比べなくてもいいのに、
なぜか私は「また自分は下なんじゃないか」と不安になって、
「同じようにならなきゃいけないんだよね」と自分を追い込んでいました。
認めてもらえなかったのかもしれない。
でも本当は、ただ見てもらいたかっただけなのかもしれません。
同じようにできなければ、見てもらえない気がしていた
私は、きょうだいより劣っていると思っていました。
だからこそ、努力しないと同じラインに立てない気がしていました。
比べなくてもいいのに、勝手に自分を下に置いてしまう。
「同じようにできなきゃ」
「追いつかなきゃ」
そんな焦りを、自分にかけ続けていました。
そうしてやっと、同じように扱ってもらえる気がしていました。
きょうだいと比べ続けていた私
私は無意識に、きょうだいと自分を比べていました。
同じようにできれば、
同じように振る舞えれば、
ちゃんと見てもらえるかもしれない。
そう思っていました。
でも心のどこかで、
「素の自分では、見てもらえないのかもしれない」
という気持ちが、いつもありました。
その気持ちを認めてしまったら、
自分の存在価値がないことを知ってしまうような気がしていました。
だから私は、その気持ちを見て見ぬふりをしました。
親に見てもらうために、親の望む姿になろうとするほうを無意識に選び続けました。
私は認められなかったのか、それとも
あの頃の私は、
「認められなかった」と思っていました。
でも今振り返ると、
本当にそうだったのかは、わかりません。
期待されていたのかもしれない。
比べられていたのかもしれない。
私なりに見てもらっていたのかもしれない。
でも、
「素のままの自分では受け入れてもらえない」
と感じていたことだけは、確かでした。
そんなことを口に出してしまったら、もっと自分が傷ついてしまうかもしれないと思い、
怖くて言うことなんてできませんでした。
認められなかったのかどうかよりも、
そう感じながら生きていたことのほうが、私にはずっと大きかったのだと思います。
親の本心がどうだったのかよりも、
私はずっと、
“条件を満たさないと存在できない”
と思い込んでいました。
大人になっても、きょうだいとの比較は消えなかった
大人になって、
家を出て、
距離もできて。
もう同じ家で暮らしているわけでもないのに、
久しぶりに家族で集まると、
私はまた無意識に、きょうだいと自分を比べていました。
仕事の話。
結婚の話。
生活の話。
どこかで、
「私は越えられていない」と感じてしまう。
いくつになっても、私はあの頃と変わらない場所に立っている気がする。
本当は、きょうだいに勝ちたいわけじゃない。
でも、
“ちゃんと個人として見てもらえない”
その感覚が、まだ残っている。
大人になっても、私はどこかで、
親に認めてもらいたいままだったのだと思います。
まとめ
親から認められなかったのかどうか、今でも正確な答えはわかりません。
でも、きょうだいと比べながら、親の望む姿に合わせようとしてきたのは事実です。
素の自分を出すより、期待に応えるほうを選んできた。
それは、きょうだいより劣っているとかではなく、
ただ見てもらいたいと思う気持ちからの行動でした。
大人になっても、無意識に比べてしまう自分がいる。
それは、あの頃の私がまだ中にいるからだと思います。
きれいに割り切れたわけではありません。
でも今は、比べてしまう自分を責めるよりも、
「まだ認めてもらいたい自分がいるんだな」と
自分で再認識しています。
きょうだいより劣っていたわけではなく、
ただ見てもらいたかっただけだったのだと、
今は少しだけ思えています。
無理に消さなくていい。
そう思えるようになっただけでも、前とは違います。
