何を選んでも、不安になる。
あっちを選んでも落ち着かない。
こっちを選んでも「これでよかったのかな」と考えてしまう。
私はずっと、間違えるのが怖いのだと思っていました。
でも今振り返ると、本当に怖かったのは「間違い」そのものではなかったのかもしれません。
怖かったのは、
「間違っている人だ」と思われることでした。
後悔(不安)が消えないとき、私は何を怖がっていたのか
不安が消えないとき、
私は「選択ミス」を怖がっているのだと思っていました。
ちゃんと選ばないといけない。
間違えないようにしないといけない。
そう思っていたけれど、よく考えると本当に怖かったのは別のものでした。
選択を間違えた結果、評価が下がること。
「やっぱり頼りないよね」
「だからあなたは…」
そんなふうに見られることが怖かったのです。
選択ミスが、自分の価値を証明する材料になってしまう気がしていた。
だから、ひとつの選択がとても重たくなっていました。
「ほら、やっぱり」と言われる未来を先回りしていた
怒られることよりも注意されることよりも怖かったのは、
「ほら、やっぱり」と言われる未来でした。
うまくいかなかったときに、
“やっぱりダメな人なんだ”と認定されてしまうこと。
その想像を、無意識に何度も先回りしていたのだと思います。
だから、選択そのものに過剰な緊張がかかる。
間違えないように。
後から責められないように。
少しでも安全な方を選ぼうとする。
それでも不安は残り、どちらを選んでも安心できない。
不安は、選択の問題というより、
「どう見られるか」に向いていたのかもしれません。
不安は自分を守ろうとする反応だった
振り返ってみると、
その不安は、「私はダメなんだ」と示すものではなかったのだと思います。
むしろ、
「間違っている」と見なされないために、
無意識のうちに張りつめていた反応だったのかもしれません。
自分の価値を守ろうとする、
小さな防衛の動き。
不安は、選択を間違えたから生まれたのではなく、
欠けている存在だと思われないために起きていた反応だったのだと思います。
「欠けていると思われる恐怖」に気づいたとき
不安の正体が、
「間違い」ではなく
「欠けていると思われる恐怖」だったと気づいたとき、
問題は選択そのものではなく、その前提にあったのだと見えてきました。
間違えたら終わり。
評価が下がったら価値も下がる。
そんな思い込みの中で選んでいたから、どの選択も安心できなかった。
不安をなくそうとするよりも、何を怖がっているのかを見ることのほうが、
ずっと大事だったのかもしれません。
まとめ
何を選んでも不安になってしまうのは、
優柔不断だからでも、弱いからでもなかった。
間違えることが怖かったのではなく、
「ほら、やっぱり」と
人として欠けている存在だと見なされることが怖かった。
だからこそ、その不安は「自分がダメだ」と示すものではなく、
否定されないように身構えてきた結果だったのかもしれません。
もし今、選択のたびに不安になるのだとしたら、
それはあなたがダメだからではなく、存在を守ろうとしている証なのかもしれない。
その怖さに気づけたとき、
不安との向き合い方は、少しだけ変わるかもしれません。

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